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中宮寺

画廊

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天寿国曼荼羅繍帳とは

日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、推古天皇三十年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、図像をつくって太子往生の姿をお偲びしたいと、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国のありさまを刺繍せしめられたものです。 もとは繍帳二帳よりなり、そこには百個の亀甲が刺繍され、亀の甲には一個に四字ずつ、都合四百文字で繍帳造顕の由来が示されていました。幸いその銘文の全文が『上宮聖徳法王帝説』という本に書き留められており、それによりますと、絵を描いたのは東漢末賢、高麗加世○、漢奴加己利、 これを監督したのは椋部秦久麻でした。年を経るにつれて曼荼羅は破損し、現存するものは往時のほんの一部にすぎませんが、紫羅の上に、白・赤・黄・青・緑・紫・樺色などのより糸 をもって伏縫の刺繍が施された繍帳は、今なお目覚めるように鮮麗な色彩を残しており、七世紀中葉の染色技術、服装、仏教信仰などを知るうえでまことに尊い貴重な遺品といえましょう。 (現在、本堂に安置されているものはレプリカで、実物は奈良国立博物館に寄託されております。)

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真相

天寿国曼陀羅繍帳とは、太子の妃の一人・橘大郎女が太子の没後、天寿国におけるその往生のさまを繍帳二張(約五メートル四方)に作らせたもので、現在は断片を集めて額装してある。地は紫羅・紫綾が主で、人物・亀甲文・建物などを色糸で刺繍したもので中宮寺(奈良県斑鳩町法隆寺北)の所蔵。中宮寺天寿国繍帳とも云う

鎌倉時代に中宮寺を再興した尼僧・信如によって、法隆寺鋼封蔵から発見されたもので、発見当時すでに痛みが激しく、建治元(1275)年、模本が作成されたという。現存の天寿国繍帳は、残存した推古朝の原本と建治の模本を繋ぎ合わせた物を表装したものという。

図像は断片しか残ってないが、銘文は「上宮聖徳法王帝説」など、いくつかの文献で全文を知ることができ、全400文字を100匹の亀甲に4文字ずつ縫い込まれているというものである。原文は漢文で書かれ解読困難であるので、読み下したものは次の通りである。ただし、万葉仮名で書かれた人名に、( )書きで書紀の人名を筆者が挿入した。

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意味

「斯帰斯麻(しきしま)宮に天の下治ろしめしし天皇、名は阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにはのみこと:欽明天皇)は、巷奇(そが)の大臣・名は伊奈米の足尼(そがのいなめのすくね:蘇我稲目宿禰)の女(むすめ)、名は吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)を娶して大后とし、生みませる名は多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと:橘豊日命=用明天皇)。

妹の名は、等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと:豊御食炊屋姫=後の推古天皇)。復(また)、大后の弟・名は乎阿尼乃弥己等(おあねのみこと:小姉君)を娶して后と為して生みませる名は、孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと:穴穂部真人)。

斯帰斯麻天皇の子・名はヌ奈久羅之布等多麻斯支乃彌己等(ぬなくらのふとたましきのみこと:渟中倉太玉敷命=敏達天皇)、庶妹、名は等巳弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと:豊御食炊屋姫)を娶して大后と為し、乎沙多(おさた)の宮に坐して天の下治しめして生みませる名は尾治王(おはりのみこ:尾張皇子)。

多至波奈等己比乃弥己等(たちばなとよひのみこと:橘豊日命)が庶妹、名は孔部間人公王(あなほべはしひとのひめみこと:穴穂部真人)を娶して大后と為し、濱辺の宮に坐して天の下治しめして生みませる名は等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと:豊聡耳皇子=厩戸皇子)、尾治大王の女・名は多至波奈大女郎(たちばなおおいらつめ:橘大郎女)を娶して后と為したまう。」

「歳は辛巳(621年)に在る十二月廿一日癸酉の日入に、孔部間人母王、崩りたまう。明年の二月廿二日申戌の夜半に太子(厩戸皇子)は崩りたまいぬ。時に多至波奈大女郎(橘大郎女)が悲哀(かな)しみ嘆息(なげ)きて、天皇の前に畏み白して曰さく。

「之を啓(もう)すは恐れありと雖も、心に懐いて止使(やみ)難し。我が大王(厩戸皇子)と母王と斯りし如く従遊まして、痛酷(むご)きこと比なし。我が大王(厩戸皇子)の所告(のたま)いけらく、『世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり』と、其の法を玩味(あじわい)みるに、我が大王(厩戸皇子)は、応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う。

而るに、彼の国の形は眼に看がたき所なり。稀(ねが)わくば、図像に因りて大王(厩戸皇子)の往生したまえる状(さま)を観(み)んと欲(おも)う」と。天皇、之を聞こしめして凄然たまいて告曰(のりたま)わく、「一の我が子有り啓す所誠に以て然か為す」と、諸の妥女等に勅して繍帷二張を造らしめたまう」。

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解釈

「画ける者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加世溢(こまのかせい) 又、漢奴加己利(あやのぬかこり)。令せる者は、椋部秦久麻(くらべのはたのくま)なり」とある。これによれば、我が大王(厩戸皇子)の妃として、橘大郎女が作らせたものとみても、厩戸皇子の実在や偉業を証明できるものでもない。

出典:2010 ふるさと調月の歴史
中宮寺
Chuguji Hondo 2008.jpg
現在地 奈良県生駒郡斑鳩町
法隆寺北1-1-2
位置 北緯34度36分53.85秒
東経135度44分22.47秒
山号 法興山
宗派 聖徳宗
本尊 (伝)如意輪観音
創建年 7世紀前半、一説に
推古天皇15年(607年)
札所等 聖徳太子霊跡15番
中部尼寺巡り15番
神仏霊場巡拝の道 第27番
文化財 木造菩薩半跏像
天寿国繍帳残闕(国宝)
紙製文殊菩薩立像
紙本墨書瑜伽師地論
(重要文化財)
©2011 AyaIgarashi
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